笠井亮物語

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「もう応援に躍起です」


「もう、応援に躍起ですよ。今、国政になくてはならない人。どうしても国会に帰ってもらいたいですから」。83回目の誕生日を迎えたばかりの塩田庄兵衛・東京都立大学・立命館大学名誉教授が、あちこちの知人に「笠井さんを」と訴えています。
5月初旬には、信州の山間、穂高町の街頭に夫婦で駆けつけ、宣伝キャラバンで演説中の笠井さんを感激させました。

「驚くほど豊かな知見と、周囲へのこまやかな配慮を欠かさない人柄」―塩田さんを突き動かす笠井さんの魅力です。「非核の政府を求める会」常任世話人会で知り合ってから10年来の知己。「私たちは3年前、笠井さんを落選させるという大きな痛手を負いました。この失敗を二度と繰り返してはなりません」。

二人の母

だれもが認める温かい人柄。今、そんな笠井さんの“二人の母”の話が感動を広げています。一人は、自宅を訪ねて懇談した自衛官の母。「人殺しさせるために息子を産み育てたんじゃない」。母親の語る自衛隊イラク派兵への不安と怒りをしっかりと受け止め、「ねばり強く派兵反対、憲法守れの声を広げましょう」と励ましています。

もう一人は、実母の淳子さん(73)。ヒロシマで14歳の時に被爆した母は、子どもたちの将来に影響が出ることを案じて50年間、被爆のことを外で話しませんでした。「『二度とあの悲劇を繰り返してはいけない』という母のことばが、私の政治の原点」と笠井さん。
「あしかけ12年、車イス生活となった母の食事・介護を、妻と日課にしてきた」だけに、介護問題の実態を最も身近に知る政治家です。

政治動かす論戦力

「国会論戦の主舞台は第一委員会室。そこで一年生議員が総理ら閣僚を相手に論戦すること自体大変なのに、他党議員から“第1委員会室の男”と呼ばれるほど質問に立ち続けた。並大抵のことじゃない」。国会でじかに笠井さんの質問を見てきた木島日出夫前衆院議員の証言です。「首相を答弁不能に追い込む場面を何度も見ましたよ」。

論戦力は、小泉首相まで歴代5内閣を相手に、一期6年間で150回に及んだ質問が実証しています。時の首相に実態を突きつけ、リストラに応じない労働者を閉じ込めた日本NCR(コンピューター製造)の“座敷牢”廃止に道を開き(1999年7月)、米軍新基地の使用期限をただし、まともに答えない外相を一喝して、与党議員に「拍手したかったが、立場上できないのがつらかった」といわせた沖縄・普天間基地移設問題での追及(同年12月)などなど。東大経済学部卒業後、同農学部で学び、安保・外交から金融・経済、農業まで活躍の舞台は広い。

世界を駆ける

「2月に笠井さんの話を初めて聞いて、感動して泣いてしまった」というのは垣内麻衣子さん(20)=学生、愛知=。「最初は反対していたお父さんが、最後には応援してくれるようになったというお話。共産党の主張は、だれからも共感されるんだって思うと、胸がいっぱいになりました」。ネパールの福祉を勉強しに現地にいったばかりの垣内さん。「20代から世界を飛び回って野党外交の第一線に立つ、スケールの大きさにびっくりです。私たちの思いを託せる人だって実感しました」。
昨年8月、訪問40カ国目のマレーシアで、東アジア会議とアジア太平洋円卓会議に出席。13カ国1,500人の参加者の中で政党代表は笠井さんだけ、しかも日本共産党代表とあって注目を集め、マハティール首相(当時)はじめ、イスラム諸国代表らとも交流を深めました。「選挙はいつ。また国会議員で頑張って」と激励される場面も。
「一人ひとりの命と人生を大事にし、応援してこそ政治。それをモットーにしている日本共産党を大きくのばしてください」。笠井さんの全力をあげた訴えが続きます。

(2004.6.1「しんぶん赤旗」日刊紙に掲載された記事の本文。見出しの一部を変更しました。)

 

父と母「人に尽くせ」今も胸に熱く


「人に尽くす人間になりなさい」、「二度とあの悲劇を繰り返してはいけない」―気まじめな父と広島で被爆した母。もともとは共産党と縁のなかった家庭に生まれた笠井あきらさんが、幼いころから何度も聞いた両親のことばです。日本平和委員会理事を15年、原水爆禁止日本協議会の常任理事を11年務めるなど、平和と命、暮らしを守って献身的に活動する笠井さんの政治の原点がここにあります。

入党は自然の結論

「広島や長崎の国際会議でよくお会いする」という元新潟大学農学部長で新潟県原水協筆頭代表理事の加村崇雄さん(73)。「青年たちに国際問題を熱心に語る笠井さんを目にしたこともあり、核兵器廃絶への情熱には大いに期待しています」

「母は、子どもの結婚に差し障るのではと、被爆者手帳も申請せず、他人に被爆の話はしませんでした。でも、わが子には語ったつらい体験。原爆投下と戦争への強い怒りを感じました」

こんな笠井さんが出合った日本共産党は「いち早く核兵器廃絶を掲げ、命がけで侵略戦争反対を貫き、きまじめに人に尽くす党。入党は私にとって自然の結論でした」。

母が被爆者手帳を手にしたのは、被爆から50年後。笠井さん初当選の1995年でした。その年の夏、脳梗塞(こうそく)で車いす生活の母と広島・平和公園を訪ねました。母にとっては被爆後初めて。「原爆碑の前で声をあげて泣く母の姿に、平和への思いをいっそう強くした」といいます。

浪人中デモに参加

佐渡に生まれ、新潟県内の小学校長を歴任した教育者が祖父の笠井さんは、中高一貫の東京教育大付属駒場中・高校から東大に進学。ただし、ガリ勉のモヤシっ子とは無縁でした。中学三年から下宿暮らし。バスケット、バレー部で汗を流す一方、化学部、農芸部にも入るなど探究心おう盛。

大学浪人中も、受験勉強をしながら、アメリカに沖縄の施政権返還を求めるデモ行進に毎日のように参加。米軍基地の重圧に苦しむ沖縄県民への思いは、「国民が主人公」の政治信条として、その後も一貫しています。2001年、48歳で参院沖縄・北方問題特別委員長に就任すると、毎年6月23日に沖縄で行われる戦没者追悼式に、同委員長として初めて出席。「沖縄の心を託せる政治家」(島袋宗康・沖縄社会大衆党委員長)と評されました。

「朝昼食を交代で作っています」。今、富山県出身の妻・貴美代さんと、自宅で母(72)の介護が日課です。朝6時から準備して出勤。介護の大変さを肌で感じるだけに「国会で介護保険制度を改善したい」とも。

父親の最後の言葉

初めて比例候補となった92年の参院選の最中に父が亡くなり、訃報(ふほう)を遊説先の広島で受けました。当初、笠井さんの入党にひどく驚き反対したといいます。「でも、何とか子どもを理解しようとしてくれ、公示直前には『ここまできたら、どうして共産党を名乗っているか、みんなに赤旗新聞を読んで分かってもらうことだね』と激励してくれました」。
これが最後のことばでした。この思いをしっかり受けとめる笠井さんのたたかいが続きます。

 

国際政治家、野党外交の第一人者

2003年夏、笠井あきらさんは、マレーシアで開かれた東アジア会議とアジア太平洋円卓会議に出席しました。アジア13ヵ国の各界1500人の参加者のなかで、政党からは笠井さん一人だけ。マハティール首相とあいさつを交わすなど、平和と繁栄のアジアめざす共同を語り合いました。

会議を主催したマレーシア戦略国際問題研究所のソピー会長が「民主的な社会主義の政党なんです」と首相に紹介、東南アジアの研究者から「次の選挙はいつ。また国会議員で頑張って」と激励される場面も。「日本共産党への期待の大きさを実感した」と笠井さん。

20代から国際舞台で奮闘

党国際局次長として、野党外交を推し進めています。20歳で世界青年学生祭典(ベルリン)に参加して以降、訪問は40ヵ国近くに。

「やーっ、本当に助かったよ」(他党議員)。笠井さんの群を抜く外交手腕が発揮されたのが、参院初当選直後の1995年9月。フランスの核実験に抗議するため、世界の人々が太平洋のタヒチに集まりました。

日本からは、大蔵大臣(当時)、各党の党首・幹部クラスら超党派の国会議員団が現地入り。そこで、日本を代表して世界15カ国の議員と協議し、「共同の発展」を訴えたのが笠井さんでした。「丁々発止のやり取りで英語やフランス語が飛び交い、日本だけ通訳付きで発言する余裕なんてなかったですから」

国際感覚が鋭く問われる場面。笠井さんの豊富な国際経験は、他党からも頼りにされたのです。

どんな大国とも堂々と渡り合う

世界を舞台にした笠井さんの活躍は、相手がどんな大国でも、いうべきことは堂々と主張する――日本共産党の自主独立の立場を貫いたもの。かつてのソ連と渡り合ったハンガリーでの3年間は、いまも語り草です。

世界百数十ヵ国の青年団体が加盟する世界民主青年連盟。その本部があるブダペストに、日本民主青年同盟の代表として笠井さんが赴任したのは29歳の時でした。

毎週木曜、本部ビル5階で開く会議は、5大陸33組織の代表が参加し、英、仏、スペイン語の同時通訳がつく本格的なもの。ここで、ソ連の外交政策支持を押しつけるソ連とその追随者に、正面から反対の論陣を張り、核兵器廃絶など平和のための共同を呼びかけたのが笠井さんでした。

「ソ連派は、ソ連共産党機関紙『プラウダ』の英語版に赤線を引き、“理論武装”して論争をしかけてくる。対するボクは、一週間遅れで届く『しんぶん赤旗』を頼りに反撃しました」

そんな笠井さんに、ついたニックネームが「マーロ」。スペイン語で「悪いやつ」。「でも、「本当はいいやつ」という意味も込められていたそうです」。“ソ連には分からないが、スペイン語圏の人はみんな分かっているから”とこっそり耳打ちされたといいます。

その横暴勝手なソ連はなくなり、歴史の軍配は上がりました。一見、孤立しているようでも、道理ある主張は共感と信頼を広げ、実ることを身をもって体験しました。日本の政治でも同じです」と笠井さん。地球規模の奮闘が続きます。

 

光る論戦力─首相は答弁に立てなかった


「笠井さんとは非核の政府を求める会常任世話人として十年来の友人」という塩田圧兵衛・東京都立大・立命館大名誉教授(83)。長期滞在先の長野県穂高町で、熱い思いを語ります。「あれだけ見識が豊富なのに、ひけらかさず、決して人を不快にしない人柄が好きなんですよ。核兵器廃絶という人類の最重要課題をはじめ山積する問題は、国政の場に笠井さんを求めています。この瞬間、国会に笠井さんがいないことは本当に残念。次の選挙では、できるだけのお手伝いをしたい」

150回に及ぶ質問

笠井さんが参院議員を務めた2001年までの6年間。小泉首相まで歴代五内閣の首相と対決した150回に及ぶ質問は、論戦力の確かさを証明しています。

参院議員2年目の1997年11月。拓銀や山一の破たんを契機に、政府が銀行や証券の乱脈経営の穴埋めに国民の血税を湯水のように注ぎ込む一方、弱者切り捨ての「財政構造改革」法ゴリ押しで大荒れとなった国会が舞台。当時、笠井さんの秘書だった湯浅和己さんの証言です。

「国会での質問準備は、終電車も過ぎ午前1時、2時はザラ。質問当日の朝までというのもしばしばでした。質問を毎日続けることがどれほど大変なことか。それを笠井さんはやってのけた」

連日の特別委員会で「国民犠牲、浪費の温存、個人消費を冷え込ます」と同法の危険性を追及し、法案採決の本会議では日本共産党を代表して反対討論に立ちました。

東京大学経済学部卒業後、同農学部でも学び、安保・外交に加え、金融・経済、農業分野での即戦カぶりは、予算委理事や農水委で実証ずみ。

質問後、院内で行き会った小泉厚相(当時)が、「立場は違うけど聞かせたよ」と話しかけてきたのが98年4月1日の予算委での質問。消費税5%増税から丸1年のこの日、「消費税減税こそ実効ある景気対策」と橋本首相に迫り、「よくいってくれた」の電話やファックスが殺到しました。

“座敷牢”廃止へ

「労働者の暮らしと権利を守る、ここに労働運動の原点がある」と語る成瀬昇・元愛知県地方労働組合評議会議長(77)。「笠井さんは、まさにそこを国会で追及されてきた。リストラ・賃下げ思いのままの今だからこそ、何としても国会に」と期待を寄せます。

現実政治を動かす論戦力—99年7月には、小渕首相にリストラの実態を突き付け、退職に応じない労働者を閉じ込めた日本NCRの”座敷牢(ろう)”廃止につなげました。

与党議員に「拍手したかったが、立場上、できなかったのがつらかった」といわせた質間があります。99年12月8日の予算委で沖縄・普天間基地の移設問題を取り上げ、米軍の使用期限をただしたのがそれ。

小渕首相は答弁に立てず、米軍に問い合わすこともできない河野外相の答弁に、「どこの国の外務大臣か」と一喝。審議は中断しました。また、森首相や労相が答弁不能になったのは、2000年11月のKSD疑惑追及。与党席から「大臣、堂々と答弁せんかい」とヤジが飛びました。国会に不可欠の笠井さんです。

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