私の紹介

車椅子の母と歩いた50年ぶりの広島

母と

 学生時代、安保や沖縄の問題を通じて日本共産党員の道を歩み出した私ですが、そこへ導いた力をさらに強く思うのは、母のことです。

 初当選を果たした95年の9月、私は母の車椅子を押して広島をおとずれました。50年前、当時14才の母は原爆投下の2日後に、爆心から1キロ余の広島市横川町へ入り、そこで被爆していたのです。以来50年ぶりの広島訪問です。

 実のところ、父の死のあと脳梗塞に倒れて車椅子生活の母には、心身の負担が大きすぎるのではないかと、気掛かりでした。しかし母は、意外に冷静でした。原爆資料館では、廃墟を再現した展示に、「私が見たヒロシマはこれ!」と声をあげ、一つ一つ食い入るように見入っていました。

母と

 そんな母が突然、声をあげて泣きだしたのは、平和公園の原爆碑に刻まれた「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という碑銘を読んだときでした。「あんなこと繰り返しちゃいけないのに、何千倍もの核兵器を、いつどこで使うつもりなの・・」。それは、地獄を見た生き証人として、悲劇から何ら学ぼうともしない核大国へ放った怒りの叫びなのです。

 母はそれまで、子どもの結婚にさしさわるのではと、被爆手帳さえもらわず、他人には被爆のことを話していませんでした。しかし、毎年8月6日になると、「二度と繰り返さないで」と願いをこめるように子供たちに聞かせ続けたのです。「針工場の辺りは死体の山だった。その上に敷かれたベニヤ板の上を、恐る恐る渡ったの。ほんとうに恐かった…」。

「一度はこなければならなかったんだよね」。被爆50周年、ようやく娘の結婚でふんぎりをつけ、日本被団協(日本被爆者団体協議会)のみなさんのご協力で被爆手帳をもらってヒロシマをおとずれた母の言葉でした。