私の紹介

『笠井亮物語』

国際政治家、野党外交の第一人者

  2003年夏、笠井あきらさんは、マレーシアで開かれた東アジア会議とアジア太平洋円卓会議に出席しました。アジア13ヵ国の各界1500人の参加者のなかで、政党からは笠井さん一人だけ。マハティール首相とあいさつを交わすなど、平和と繁栄のアジアめざす共同を語り合いました。

  会議を主催したマレーシア戦略国際問題研究所のソピー会長が「民主的な社会主義の政党なんです」と首相に紹介、東南アジアの研究者から「次の選挙はいつ。また国会議員で頑張って」と激励される場面も。「日本共産党への期待の大きさを実感した」と笠井さん。

20代から国際舞台で奮闘

  党国際局次長として、野党外交を推し進めています。20歳で世界青年学生祭典(ベルリン)に参加して以降、訪問は40ヵ国近くに。

  「やーっ、本当に助かったよ」(他党議員)。笠井さんの群を抜く外交手腕が発揮されたのが、参院初当選直後の1995年9月。フランスの核実験に抗議するため、世界の人々が太平洋のタヒチに集まりました。

 日本からは、大蔵大臣(当時)、各党の党首・幹部クラスら超党派の国会議員団が現地入り。そこで、日本を代表して世界15カ国の議員と協議し、「共同の発展」を訴えたのが笠井さんでした。「丁々発止のやり取りで英語やフランス語が飛び交い、日本だけ通訳付きで発言する余裕なんてなかったですから」

 国際感覚が鋭く問われる場面。笠井さんの豊富な国際経験は、他党からも頼りにされたのです。

どんな大国とも堂々と渡り合う

  世界を舞台にした笠井さんの活躍は、相手がどんな大国でも、いうべきことは堂々と主張する――日本共産党の自主独立の立場を貫いたもの。かつてのソ連と渡り合ったハンガリーでの3年間は、いまも語り草です。

 世界百数十ヵ国の青年団体が加盟する世界民主青年連盟。その本部があるブダペストに、日本民主青年同盟の代表として笠井さんが赴任したのは29歳の時でした。

 毎週木曜、本部ビル5階で開く会議は、5大陸33組織の代表が参加し、英、仏、スペイン語の同時通訳がつく本格的なもの。ここで、ソ連の外交政策支持を押しつけるソ連とその追随者に、正面から反対の論陣を張り、核兵器廃絶など平和のための共同を呼びかけたのが笠井さんでした。

 「ソ連派は、ソ連共産党機関紙『プラウダ』の英語版に赤線を引き、“理論武装”して論争をしかけてくる。対するボクは、一週間遅れで届く『しんぶん赤旗』を頼りに反撃しました」

 そんな笠井さんに、ついたニックネームが「マーロ」。スペイン語で「悪いやつ」。「でも、「本当はいいやつ」という意味も込められていたそうです」。“ソ連には分からないが、スペイン語圏の人はみんな分かっているから”とこっそり耳打ちされたといいます。

 その横暴勝手なソ連はなくなり、歴史の軍配は上がりました。一見、孤立しているようでも、道理ある主張は共感と信頼を広げ、実ることを身をもって体験しました。日本の政治でも同じです」と笠井さん。地球規模の奮闘が続きます。