私の紹介

『笠井亮物語』

父と母「人に尽くせ」今も胸に熱く

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  「人に尽くす人間になりなさい」、「二度とあの悲劇を繰り返してはいけない」―気まじめな父と広島で被爆した母。もともとは共産党と縁のなかった家庭に生まれた笠井あきらさんが、幼いころから何度も聞いた両親のことばです。日本平和委員会理事を15年、原水爆禁止日本協議会の常任理事を11年務めるなど、平和と命、暮らしを守って献身的に活動する笠井さんの政治の原点がここにあります。

入党は自然の結論

  「広島や長崎の国際会議でよくお会いする」という元新潟大学農学部長で新潟県原水協筆頭代表理事の加村崇雄さん(73)。「青年たちに国際問題を熱心に語る笠井さんを目にしたこともあり、核兵器廃絶への情熱には大いに期待しています」

 「母は、子どもの結婚に差し障るのではと、被爆者手帳も申請せず、他人に被爆の話はしませんでした。でも、わが子には語ったつらい体験。原爆投下と戦争への強い怒りを感じました」

 こんな笠井さんが出合った日本共産党は「いち早く核兵器廃絶を掲げ、命がけで侵略戦争反対を貫き、きまじめに人に尽くす党。入党は私にとって自然の結論でした」。

 母が被爆者手帳を手にしたのは、被爆から50年後。笠井さん初当選の1995年でした。その年の夏、脳梗塞(こうそく)で車いす生活の母と広島・平和公園を訪ねました。母にとっては被爆後初めて。「原爆碑の前で声をあげて泣く母の姿に、平和への思いをいっそう強くした」といいます。

浪人中デモに参加

  佐渡に生まれ、新潟県内の小学校長を歴任した教育者が祖父の笠井さんは、中高一貫の東京教育大付属駒場中・高校から東大に進学。ただし、ガリ勉のモヤシっ子とは無縁でした。中学三年から下宿暮らし。バスケット、バレー部で汗を流す一方、化学部、農芸部にも入るなど探究心おう盛。

 大学浪人中も、受験勉強をしながら、アメリカに沖縄の施政権返還を求めるデモ行進に毎日のように参加。米軍基地の重圧に苦しむ沖縄県民への思いは、「国民が主人公」の政治信条として、その後も一貫しています。2001年、48歳で参院沖縄・北方問題特別委員長に就任すると、毎年6月23日に沖縄で行われる戦没者追悼式に、同委員長として初めて出席。「沖縄の心を託せる政治家」(島袋宗康・沖縄社会大衆党委員長)と評されました。

 「朝昼食を交代で作っています」。今、富山県出身の妻・貴美代さんと、自宅で母(72)の介護が日課です。朝6時から準備して出勤。介護の大変さを肌で感じるだけに「国会で介護保険制度を改善したい」とも。

父親の最後の言葉

  初めて比例候補となった92年の参院選の最中に父が亡くなり、訃報(ふほう)を遊説先の広島で受けました。当初、笠井さんの入党にひどく驚き反対したといいます。「でも、何とか子どもを理解しようとしてくれ、公示直前には『ここまできたら、どうして共産党を名乗っているか、みんなに赤旗新聞を読んで分かってもらうことだね』と激励してくれました」。
  これが最後のことばでした。この思いをしっかり受けとめる笠井さんのたたかいが続きます。